法 華 験 記

国書刊行会発行 翻訳 山下 民城 氏 より

法華験記(正しくは「大日本国法華経験記」)は平安朝の末頃、比叡山横川に住する一沙門が編集した法華経信仰者の霊験記です。

 

第九 奈智山の応照法師
(この時代、妙法山も含める那智の瀧を中心とする山々を奈智山と呼んでいました。)

 

沙門応照は、熊野奈智山の住僧である。その人となりは、行への精進が抜群で、怠るようなことはさらさらなかった。

仏道の究極を求めることを終生の志とし、山林樹下を住み家とし、人間と交わる雑事を避けていた。法華経を繰り返し読んでいたが、薬王品に至るごとに、喜見菩薩がおのれの身を焼き臂を燃やしたことに、骨髄に徹するほど感銘し、その行いに随喜し、この菩薩に対する恋慕の思いを深くした。

そしてついに、自分も薬王菩薩のように身を焼いてもろもろの仏に供養しようと思い立った。そこで、五穀を食せず、塩も断ち、さらに甘味をも食しなかった。松葉を噛んで食事とし、雨水を飲み、身も心も清浄に保って焼身に具えた。

いよいよ焼身の実行に当たっては、新しい紙の衣を着、手には香炉を持ち、薪の上に結跏趺坐(けっかふざ)し、西の方に向かって諸仏を勧請し、願を立てて言うには、「わたくしはこの身心をもって法華経に供養し、頭は上方の諸仏に供養し、足は下方の世尊に捧げ奉ります。背のほうは東方の仏よ、どうぞ納受してください。前のほうは西方の仏よ、わたくしを哀れんでお受けください。胸は釈迦牟尼大師に供養し、左右の脇は多宝如来に布施し奉り、咽喉は阿弥陀如来に奉ります。五臓は五智如来に供養し、六腑は六道の衆生に布施いたします・・・」と言った。

言い終わると定印を結んで、口には妙法蓮華経を誦し、心には三宝を念じていた。そして身体は燃え尽きて灰となったが、経を誦する声は絶えず、乱れることもなかった。身の燃える煙は少しも臭くなく、かえって沈檀を焚くような香りであった。吹くそよ風はあたかも妙なる音楽を奏でるようであった。

火が消えた後も、余光が残って虚実に焼き、その光で山や谷が明るく照らし出された。名も知らぬ、見たこともない珍しい鳥が数百羽集まってきて、鈴を振るような声でさえずりながらあたりを飛びまわった。これが日本で最初の焼身である。まのあたりに見た人はもちろん、伝え聞いた人も、随喜しない人はいなかった。